令和7年5月23~25日の間、
白山信仰の主たる拠点である勝山市の平泉寺白山神社(越前出身の泰澄大師が1300年以上前に創建)の33年に一度の御開帳が行われています。
本社には「白山の女神」と呼ばれる「河上御前」の像が御神体として祀られています。
「33年に一度しか見られないのか~」
というミーハーな気持ちと、
「県内の歴史ある神社の特別な日をしっかりこの目に焼き付けたい」
という真面目な気持ちを合わせて、
初日の金曜に参拝してきました🙇
33年に一度という貴重さと平泉寺白山神社の魅力によって、
平日にも関わらずすさまじい人の数で(報道では初日で7万人)、
並び始めてから入口付近へ戻って来るまで3時間半近くかかりました…
いや、でも、33年間の待ち期間を考えたら3時間を
「長い」
なんて言ってはいけませんね😂
ちなみに平泉寺白山神社は個人的に大好きな神社の一つで、
敷地内に入っていくと明らかに空気感が変わる、本当に言葉で言い尽くせない何かがあるところです。
5年ぶりくらいの参拝となりました。
さて、ここからそんな半日を経て考えたこと・感じたことです。
御開帳で御神体を少しの間だけ拝見し、拝ませていただいて、
「これは一体何なんだろう」
と改めて率直に思ったりするわけです。
というのは、
かつて誰かが作ったこの御神体としている「物質」に対して、
普段はその姿は見えずとも数百年以上にも渡りとんでもない数の人たちが、
何かを念じ、何かを感じていくということを繰り返し続ける。
この理屈ではよくわからないことは、一体何なのだろうかと。
もちろん答えは無いと思います、人それぞれとも言えますかね。
僕は昨日実際に参拝して、帰りに菩提林(ぼだいりん)を通るとき、
あえて「旧参道」(2枚目の写真です。700メートル続く、千年前から現存する石畳の参道。)の方を歩いてみたときに、ふと
「この参道は100年前も1000年前も自分と同じように誰かが何か考えながら、一つ一つ同じ石を踏みしめて歩いていたのか…」
と思いました。
その瞬間に、過去にここを通り同じ御神体に拝んだであろう顔も知らない誰かたちにとても親近感を覚えました。
これはとても大切なことなのだと思います。
人間は社会的動物であり、どんなにマッチョな人でも頭が良い人でも一人で個の力で生きていくことは絶対に不可能で、
色々な括りでの社会=共同体に属して生きています。
そしてその社会が崩壊しない社会であるためには、共同体の構成者たちに何かしらの共通感覚や共通認識が必要。
神社・仏閣という空間であり、そこにいらっしゃる御神体(神様)や御仏像(仏様)が、
同じ時代の共同体の人たちに共通の体験や感覚を与えてくれるのはもちろん、
もはや時代すら超えてかつての人たちとも
「俺もこの参道通ったんだぜ~」
「私もこの神様にお参りしてたのよ~」
みたいな感覚、つまり連綿と紡がれている地域の歴史の縦の糸を感じさせてくれているのだろうとか、
考えながら旧参道を一歩ずつ歩きました。
こういう感覚を持たせてもらえるからこそ、僕らは
「色んなものが積み重なったこの地域・社会を守りたい、顔を見ることもない次の時代の人たちにも残したい」
と思えるのかなと思いました。
先日の三国祭もそうですが、
文化を守ることは共同体を守ること。守っていかねばですね。
ということで、
いずれにせよ、これを書いている時点で御開帳はあと1日です。
そこに合理的な意味を求めずに、
ぜひこの何かを感じる貴重な機会に、長い待ち時間の覚悟だけはもって平泉寺白山神社に訪れてみることをお勧めします☺️
(交通手段はホームページなどをご確認ください、期間中は車で現地には行けません。)
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